こんにちは、竹内です。

コーチングというお仕事をさせていただいております。
私はとてもマイペースでのんびりしていますので、カタツムリのようだと言われます。
「コーチ・エスカルゴ」などとも呼ばれています。
ブログというのも、実は初めて書きますので、何を書けばよいのか・・・。
考えていてもわからないので、とりあえず、書き始めることにしました。
あとはのんびり、自然な流れに乗りながら、だんだんとコンセプトを固めていきたいと思います。

2012年03月29日

8次元の愛 177 〜揺れながら揺るがずに

必要なものは
必要なだけ
必要なときに
来ます。

真本音で
生きている限りは。

今、これが足りない。
今、これが欲しい。
と思っても、
今は、これが足りなくて
今は、これが欲しいと
思うこと自体に意味があり、
そんな自分だからこそ踏み出す
次の一歩が
最善の道を開きます。

真本音で
生きている限りは。

私達の顕在意識レベルの思惑は、
残念ながら
私達が思っている以上に
浅はかです。

そして、
私達の真本音は、
私達が思っている以上に
深く、
示唆に富んでいます。

私達にできることは、
私達自身の真本音を
信じることです。

・・・・・
例えば、
勇気をもって
一歩を踏み出すことが
できなかった。
と、悔やむことがあります。

しかし真本音で生きている限りは、
勇気が出なかったという
その選択こそが、
最善だったのです。

勇気を出そうとする
私達の思惑を
私達の真本音は超えて、
勇気を出せなかったという
最善の道を開きます。

いえ、
もっと正確に言えば、
勇気を出したいという
私達の思惑を
真本音は活かし、
勇気を出せなかったという
悔恨の思いを
わざと発生させ、
そんな私達だからこそ
さらに次の一歩が
最善となってゆく。
という道を
意図的に創ります。

それが真本音です。

ですから、
真本音で生きている人に
お伝えしたいのです。

欲しいものは
思いっきり「欲しい!」と
思いましょう。

悔やむときは
思いっきり
悔やみましょう。

悲しいときは
思いっきり
悲しみましょう。

そして、
嬉しいときは
思いっきり
喜びましょう。

自分の反応本音に
素直に生きればよいのです。

真本音で生きているからこそ
できることです。

・・・・・
道が進まなくなるときも
あります。
もっともっとスピードを上げて
前進したいのに、
何をやっても上手くいかない。
何をやっても進まない。

そんなときもあります。

しかし、やはり
真本音を大切に生きている限りは
それも
真本音の意図です。

あえて、今は進まない
ことが最善なのです。
そしてそこでイライラする
ことが最善なのです。
そんな道を経るからこそ、
その後に、
とてもとても大切な何かに
気づいたり
大切な何かを手に入れたり
できるのです。

3次元レベルの「現象」や
現象によって生じる反応本音に
揺らされないでください、
という話ではありません。

思いっきり
揺れても大丈夫ですよ。
だから、
思いっきり揺れながら行きましょう。
という話です。

すべて真本音の意図なのです。
だから安心して
揺れましょう。

安心して
不安定になりましょう。

それができればできるほど、
私達は
その奥の「真の安定」を
実感できるのです。

・・・・・
今の世の中も
揺れ揺れです。

これはもう
しょうがないです。

この揺れ揺れを
安定させようとは
決して思わないことです。

むしろ今は
どんどん揺れ動きましょう。

すると
世の中全体の揺れ揺れの奥に
確かに存在する
真の安定を
やはり実感できる瞬間があります。

揺れ動けば揺れ動くほど
安定を知ることができるのです。

心の動きと
世の中の動きは
まったく一致します。

自分と向き合い
自分の心を知ることのできる人は
世の中の「本当」を
知ることもできます。

何が、ただの揺れで、
何が、真の安定か。

それがわかれば、
その後の「自然な流れ」も
観えてきます。

恐れてもよいのです。
不安になってもよいのです。

私達は今の時代を、
思いっきり揺れ揺れになりながら、
揺るがずに進みましょう。

つづく

2012年03月25日

8次元の愛 176 〜真剣に休みましょう

本当は、私達には
充分なパワーがあります。
それはそれは
途方もないものです。

しかし私達は
疲労します。
疲弊したり、枯渇します。
パワーがゼロになることが
あります。

なぜでしょう?

答えは単純です。
パワーはあるのに、
それを使える自分に
なれていないだけのことです。

本来あるパワーを使うためには、
私達自身に一貫性が
必要です。

一貫性とは、
魂と心と体に
筋が通っていること。
すべてが同じ方向を向いていること。
淀みがない状態を言います。

心で思った通りに
体を動かす(つまり行動する)人は
多いと思います。
しかし、
心の「もと」である魂との
つながりはどうでしょうか?
ここにズレがありますと、
一貫性は大きく崩れます。
それが、
疲労や疲弊を引き起こします。

魂との一貫性をとるために
私達にできることは、
真本音で生きること。
それ以外には、ありません。

・・・・・
以上は大原則ですが、
実は、今のこの時期だからこそ
疲労・疲弊・枯渇してしまうという
特別な理由があります。

その理由とは、
「魂の全力疾走」
です。

私達の魂は、本来は
疲弊することは
ありません。
なぜなら、
私達の人生は、
魂の最も居心地のよいスピードで
進むからです。
魂自体は常に光り輝き、
常に100%の状態で在り続けながら、
進化・成長の道を進む、というのが
人生です。
通常であれば。

しかしながら、
今は状況が特別なのです。
これは、
人類の長い歴史の中でも
初めてのことでしょう。
いえ、未来永劫
今と同じ特別な状況は
訪れないでしょう。

特別な状況。
それは、
反応本音の時代から
真本音の時代への移行期である、
ということです。
しかもその移行期とは、
この1,2年のみのことです。

いかにこの1,2年が
特別な1,2年なのか、
ということを
おわかりいただくと良いですね。

そしてこの1,2年だからこそ、
私達の魂は
疲労・疲弊する可能性が
かなり高いです。
実際に私のクライアントさんのほとんどは、
いえ、すべては、
その状態にいらっしゃいます。

真本音の時代に無事に入るために
私達は自身の心の状態を
根本から「変質」させようと
しています。
「変化」ではなく「変質」です。

そのため、
魂が全力疾走に入ります。
それはまるで、
42.195kmを50m走のペースで
走り続けるのに似ています。
魂はかなり無理を
しています。
しかしそうまでしても、
私達は真本音の時代に入るための
最大の努力を
し続けているのです。

これは特別なことです。
魂とは本来は
疲労・疲弊しないものですが、
今の状況においてのみ、
完全にパワーの枯渇状態に入るケースが
増えています。

増え続けています。

しかしそれは、
決して悪いことではありません。
必要なことであり、
希望です。

ですから、どうか
頑張っている自分自身を
大切にしてあげてください。

・・・・・
魂の疲労・疲弊には
独特の感覚があります。

体が疲れるのとも違います。
心が疲れるのとも違います。

体と心のもっと奥、
芯の部分、根本の部分から
とにかくパワーがなくなります。
そして
すべての気力がなくなります。
何もしたくなくなります。

そして、多くの人は
とにかく眠くなります。

魂の全力疾走という原因を
知らない人は、
「自分はなんて、ぐうたらなんだ」
と、自分を責める人が多いようです。
しかしこれは
ぐうたらではありません。
当然の現象です。
普通ではないことをしているのです。
そんなときは、
とにかく休んでください。
よく眠ってください。

自分をいたわってください。

魂の疲労・疲弊は
永遠に続くわけではありません。
そのペースに慣れれば、
徐々にパワーも復活します。
そうなると、
これまでの自分とは
根本的に異なるパワーが
生まれます。
その時に、心と体が
全力疾走に入れるように
今は、しっかりと
休んでください。

「休む時間なんてないから」
という人は、
できる範囲で結構ですから、
仕事に向かう以上の真剣さで
「休もう。それが今の自分に最も
 必要なことだ」
と、自分に言い聞かせてください。

とにかく今は、
ちょっと大変な時期です。
今だからこそ
すべきことがあります。

その一つが、
休む、ことなのです。

つづく

2012年03月24日

8次元の愛 175 〜発想は出ますか?

発想と思考は
違います。

発想とは、
魂、もしくは心から
発せられる意識の塊を言います。
最初にポンっと
生まれるものです。

そしてその発想に対して、
自分なりの解釈をします。
それが思考です。

最初に生まれたものが発想で、
その発想に対して二次的に
生じるのが思考です。

多くの場合、
発想は自由ですが、
思考はその発想を
縛る方向に作用します。

私達は思考をすればするほど、
視野が狭くなります。
心を縛ることになります。

思考がいけない、
ということではありません。
視野を絞ることで、
私達は探究をすることが
できます。

しかし、
思考を思考のままに留めるのではなく、
思考をしたらその後には
一度心をニュートラルな状態に戻し、
次の発想を待つことが大切です。

思考のままでは、
本質的な答えには行き着きません。
思考と発想を効果的に活かすことで、
私達は、
本質を見つけることができます。

なぜなら、
すべての物事の本質を、
すでに私達は知っているからです。
すべての答えは、
ちゃんと私達の中に
あります。

それを掘り出すことが
本来の探究です。
本質とは、
人間が創るものではありません。
すでに
あるものです。
そして、すでに
知っているものです。

知っているのに顕在化されていないものを
顕在化させることを
探究と言います。

ですから、
思考を思考のままで終わらせても、
本来の答えには行き着きません。
思考により焦点を絞り、
その焦点に基づいた発想、
つまり、その方向の意識の塊を
引き出すことで、
私達は、欲しい答えを
本当の答えを
導き出せるのです。

・・・・・
すべての答えを自分の思考のみによって
導き出そうとするならば、
それは、傲慢です。

傲慢とは
単なる4次元の意識に過ぎません。

しかし、
思考のみによって形成される理論は
ある意味、もっともらしいですので、
時には妙な説得力を持ちます。
そして、
その理論を見ることで、
私達は、それが答えであると思い込み、
自身が思考停止状態となります。
結果として、
本来の発想が生まれなくなります。

本来の発想に基づいた本質的な答えと
そうではない、ただの思考による答えが
入り混じっているのが、
今の世の中の現状です。

私達は、
そろそろそこから
脱皮しなければなりません。

・・・・・
一度、次の視点で
自分自身の心と
向き合ってみてください。

「私は、いつ思考しているだろう?」
と。

すると、思考に入っている自分に
気づきやすくなります。
通常、思考とは、
その中にドップリと浸かっていますから、
そこに入っていることにすら
気づかないことがあります。
しかし、
それに気づいてください。

この視点でいつも自分を見つめれば、
私達は、
実に、本当に、すごい量の
思考をしていることに気づくでしょう。

ほんのちょっとしたことで
ちょっとした思考に入っていることに
気づくでしょう。
そして、
自分自身のその思考により、
次の自分の発想を
自ら狭めていることに気づくでしょう。

何度も言います、
思考がいけない、
というのではありません。

しかし、
思考は、私達を
知らず知らずのうちに
縛ります。
そこに気づくだけで、
私達は
心が自由になります。

思考を意図的に行ない、
思考をコントロールすることで、
私達は
心の自由を手に入れることが
できます。

そのためには、
思考をしている瞬間の自分に
気づく力をつけることです。

・・・・・
思考している自分に気づき、
その思考が必要ないな、と
思うのであれば、
その思考を流してしまってください。

「流そう」
と思うだけで結構です。

もちろん、
それだけでは流れないときも
あるでしょう。
しかし、それでOKです。

これを続ければ、
思考している自分に気づく力が
養われます。
そこに気づけば、
それだけで、心は軽くなります。

そして、
必要なときに必要な思考だけを
活用できる自分になれば、
私達の中から、
湯水のように様々な
発想が溢れてきます。

自分の中に
これだけたくさんの発想が
あったのか、と
びっくりされるでしょう。

そうです。
人は、本当に様々なたくさんの
発想を
いつもしているのです。
それに
自分が気づいていないだけです。
それらの
発想を観るだけで、
私達は、自分の欲しかった答えを
手に入れることも
可能かも知れません。
少なくとも、
自分に必要な答えは
見つかるでしょう。

自由な発想の大本は、
真本音です。
真本音からの発想はすべて、
自分の人生の指針になります。

発想という土台の上で
思考という行為を行なう。
それが、
真本音で生きる人の特長であり、
私達人間の
本来の(自然の)心の在り方です。

つづく

2012年03月23日

8次元の愛 174 〜ゾワッと感動する

ある受講生さんが
言われました。

真本音で生きる、とは
自分自身がゾワッと感動できる生き方をする
ということですね、と。

彼の言う「ゾワッと」。
ここがとても大切です。

感動には、
反応本音レベルの感動と
真本音レベルの感動が
あります。

どちらも、人として
とても大切なもの。
しかし、
その区別をつけられると
良いですね。

真本音レベルの感動の特長の一つは
その、独特の「ゾワッと」です。

なぜ自分が感動できたのか?
どこに感動しているのか?
それがよくわからないままに、
でも、
心の深奥、体の芯(根本部分)から
全身にかけて広がるように
「ゾワッと」するのです。

そして時には
意味不明の涙が流れます。
それは
魂の涙です。

そして真本音レベルの感動の
もう一つの特長は、
自分自身が開放感で満たされる
ということです。
実は、
私達は多くの場合、
心身共に開放される瞬間に
ゾワッとすることが多いのです。

私達は知らず知らずのうちに
自分で自分を縛っています。
縛られていることに気づかずに
生きています。
その「縛り」から
開放されるとき、
私達は深い感動を覚えます。

さらに、特長はあります。

真本音レベルの感動には
必ず魂の成長が伴うのです。
私達の魂は、
成長と進化を
本能として望んでいます。
そのために生きている、
と言ってもよいくらいです。

心の成長・進化ではなく、
魂の成長・進化です。

それを実感することで、
私達は真本音レベルの感動を
覚えます。

真本音で生きるとは、
魂の成長・進化の方向に生きることであり、
それには必ず、
ゾワッとした感動が伴うのです。

・・・・・
ですから、真本音の時代に入れば、
私達の成長・進化のスピードは
格段に上がります。

成長・進化という視点から言えば、
これまで10年かかっていたことが
それこそ1年どころか、
ひょっとすると1ヶ月くらいで
実現するかもしれません。

それは、
今の社会のスピード感とは
また違う次元でのスピード感です。

今の私達の心と体は、
日々、全力疾走している人が多いですが、
真本音の時代に入れば、
魂が全力疾走に入る、
と言えばよいでしょうか。

時にはそれは疲れを感じることも
ありますが、
しかしそれにより、成長・進化の
実感値も上がりますので、
私達は今以上に、本能的な幸せを
感じやすくなります。

ビジネスも
プライベートも
楽しくなるでしょう。
いや、
ビジネスとかプライベートとか
良い意味で
境がなくなります。
どちらも楽しい、
という感覚になっていきます。

すべてが
「自分の人生」
となるでしょう。

・・・・・
私達の未来へ抱く希望は、
感動と共に生まれます。

感動するということは、
心が動くということです。
特に真本音の感動であれば、
魂までが震えるということです。

心と魂が震えることで、
その刺激によって、
私達の中に眠っている様々な発想や
様々な願いが
掘り起こされます。

感動とは、
可能性の種でもあるのです。

真本音で生きる、とは
自分自身がゾワッと感動できる生き方をする
ということ。
そう言われた受講生さんの一言は、
まさに本質を表していますね。

つづく

2012年03月20日

8次元の愛 173 〜「一つ」から生まれる言葉

励ましの言葉を人に贈ったとき、
その人の心にその言葉が
どれだけ響くのか?

そこに最も大きな影響を与えるのが、
言葉を投げた私達自身の
心の状態です。

私達の心がスッキリとし、
私達自身の真本音から出る言葉であれば、
それは間違いなく
その人の心の奥まで届きます。

魂まで届きます。

しかしそうではない場合は、
届く深さには限界があります。

どれだけ美しい言葉を並べても、
それを発する私達の心の状態が
美しくなければ、
残念ながら言葉の美しさは
消散してしまいます。

言葉とは、
魂が込められてこそ
美しく輝くものです。

・・・・・
この3次元世界での
私達のコミュニケーションの主役は
「言葉」です。
言葉があることで、
私達は自分の意思を相手に伝達する
ことができます。

しかし本当は、
言葉によるコミュニケーションとは
難易度が高いのです。

もし私達全員が
テレパシーのようなものを使いこなせたら、
どれだけコミュニケーションは
楽になるでしょう。

自分の感じていることや
イメージしていることが
ダイレクトに、何の淀みも歪みもなく
相手に伝えられたら・・・
と思うことがよくあります。

でも現実はそうもいかず、
私達は言葉を使って
懸命に自分の意思を伝えようとします。

言葉とはある意味、
私達の意思を記号化したものに過ぎませんから、
私達は記号と記号のやりとりをして、
相手の心を理解しようとします。
しかし、
記号は記号に過ぎませんので、
どうしても誤解や思い違いが生じます。

私達は、本当には
わかり合うことはできないのだ。

そんな思い込みも
生まれるでしょう。

・・・・・
しかしその「記号」に
魂を乗せることは
できるのです。

いやむしろ、
記号であるからこそ、
魂を乗せることができる、
とも言えます。

記号であるからこそ、
その記号を受け取った側は、
自分にとって最も必要な「刺激」として
それを自分の魂に宿すことが
できるのです。

私達の真本音は、
言葉という「記号」による誤解をも
最初から理解して、
その上で、言葉を選んでいます。

その「誤解」を
活かしているのです。

この人に、この言葉を投げれば、
このように受け止め、
それが、このような刺激になり、
その刺激がこのような波紋を広げ、
このような影響を及ぼすだろう。・・・

そこまで知っていて、
私達の真本音は
言葉を選びます。

私達が何の思考をしなくとも
きちんとそのように
言葉を選びます。

それが真本音の力の一つです。

なぜそんなことまで
できるのでしょうか?

実は、
できるのが当たり前なのです。
なぜなら、
私達は「一つ」だからです。
私達は根底では
きちんとつながっているからです。
その「つながり」において
すでに私達はきちんと
コミュニケーションをとっているからです。

「つながり」の中でのコミュニケーション。
それを
「真本音コミュニケーション」
と呼びますが、
真本音コミュニケーションの土台の上での
顕在意識によるコミュニケーションを
することが大切です。

・・・・・
Aさんと会話をしていたとします。

真本音コミュニケーションにおいて
Aさんが
「なぁ、僕にさ、今、何を希望している?
 って、質問してくれよ。」
とあなたに言ってきます。

あなたは答えます。
「今、何を希望している? でいいの?
 何を願っている?
 の方がいいんじゃないの?」

Aさんが答えます。
「ダメダメ。
 今の僕には、希望、という言葉が
 響くんだよ。」

あなたが答えます。
「ふ〜ん、そうか。
 じゃあ、その質問投げるよ。
 いつがいい?」

Aさん。
「あぁそうだな、今の話が途切れた
 瞬間がいいかな。」

あなた。
「わかったよ。」

以上のような真本音同士のやりとりが、
心の根底(魂同士)で
無意識に為されます。
そして、今の話題が途切れた瞬間に
あなたの口からポンっと
質問が飛び出るのです。

「ところでさぁ、
 Aさんは今、
 何を希望してるの?」

その質問を受けたAさん。
その質問が魂に響きます。
「お、おまえ、なんという鋭い質問
 するんだ!」
となります。

その質問によって見つかる答えが
Aさん自身の最も必要としている
答えなのです。

・・・・・
このような会話は
本当は誰でもできます。
真本音を大切に生きていれば。

真本音が活性化するということは、
隣の人の真本音の意思を
キャッチできるようになる
ということです。

もちろん顕在意識レベルでは
真本音コミュニケーション自体を
把握することはできません。
しかし、
その時その瞬間に、
最善のひらめきや直観が起こります。
それらは、
真本音コミュニケーションをしているからこそ
発生するのです。

このような会話ができれば、
世の中は間違いなく
調和していくでしょう。

そしてこのような会話が
当たり前のように為されているのが、
真本音の時代の
特長の一つです。

つづく

2012年03月16日

8次元の愛 172 〜誤解を解こう

向かい合う現実から
私達は様々な刺激を受けています。

ある時は心地良く、
ある時は避けたい刺激も
当然あります。

刺激を受けることで
私達の心は波打ちます。
大小様々な波紋が起こります。
そしてその波紋が消えないうちに、
次の刺激が心を打ちます。

前の波紋の残像と、
今生まれたばかりの波紋が重なり、
いびつな波紋となります。
そこにさらに新たな波が来ますから、
心の中は一見すると
混沌状態となります。

たった一個の波紋であれば、
どんなに楽なことでしょう。
しかし波紋は重なり、
何がどうなっているのか
まったくわからなくなります。

そうして私達は
心の中で起きていることを
自身がわからなくなります。

そうすると、
今自分は喜んでいるのか、
怒っているのか、
悲しんでいるのか、
楽しんでいるのか、
そんな単純な感情すらも
自分でわからなくなることも
あるのです。
そういう人は、
想像以上に多いのです。

・・・・・
波紋と波紋が干渉し、
まったく別の波紋を生む。
これもよくあることです。

しかしそれらを続けていますと、
波紋の起こり方、
広がり方、
干渉の仕方、
残り方、
それぞれに、その人なりの
パターンが現れるようになります。

パターンがだんだん定まってくると、
私達はそのパターンを見て、
「これが私だ」
と思い込むようになります。

パターン化された「波紋」を
自分であると思い込むのです。

しかしそれは
波紋に過ぎません。
しかも、
波紋の一部に過ぎません。
それが「自分である」と誤解することは、
自分のあらゆるものを誤解しながら
生きることになります。
さらに、
そのように自分を見つめる人は
他人をも、そのように見つめ、
他人を誤解することにもなります。

誤解と誤解が
さらに次の波紋を生み、
人生、誤解だらけとなります。

残念ながら、
多くの人達が、
自分自身を
誤解しています。

他人を
誤解しています。

人間を
誤解しています。

誤解したままでは、
真本音の時代に入るのは
難しいでしょう。
ですから今、
誤解の「枠」を超えようと
している人が増えています。

誤解を超えて
真実を観てほしい!
という
真本音の強烈な想いが
それをさせています。

真本音が表面に出やすい潮流が
世の中全体を覆い始めている
影響です。

それはとても良いことです。

誤解をいかに解いていくか?
それが、この1,2年の
私達全員のテーマです。

・・・・・
自分はこのような人間だ。
という自己イメージを
もう、手放しませんか?

一度、すべてを
手放してみませんか?

そのように言うと、
えぇ? そんなことできないですよ。
という反応がありそうですが、
そろそろ、やろうと思えばできるかも。
という状態になってきているのです。
それだけ、
世の中全体の真本音度合いは
高まりつつあるのです。

「自分」だと思っている心。
それを一度、自分から
離してみましょう。

あぁ、こんな心があるな。
あんな心もあるな。
へぇ、こんな心も隠れていた。・・・

というように、
心の探検をしながらも
すべてを客観的に
見つめてみましょう。

そして、
こう呟くのです。

「すべては、波紋に過ぎない」

と。

それが、手放すということです。
それを続ければ、
その奥から、本当の自分が
姿を現わすでしょう。

それが、
真本音です。

真実の自分です。

つづく

2012年03月15日

8次元の愛 171 〜静かに、ざわめきを見つめる

夕暮れ時。
空を見上げると、
美しいグラデーションが
広がっていました。

自然の醸し出す色は
本当に美しく、
調和がとれています。

刻々と移り変わる空の様相に
見とれている私の横では、
大勢の人達が、
足早に行き交っています。

私のいる地上は
少々騒がしく、
しかし空はいたって
静かです。

その対比の面白さを
味わっていますと、
あぁ、人間の心も同じだな、
と思いました。

私達の心の中にも
いつもざわめいている部分と、
いつも静かな部分があります。
それを
・反応本音
・真本音
と表現しています。

心を静かにしよう、と思っても、
それはなかなか難しいです。
しかし、
心の中の、もともと静かな部分に
意識を向ければ、
私達はニュートラルな自分、
もとの自分を思い出せます。

私達の心の根底は
いつも静かです。
魂そのものは
いつも静かです。

そしていつも同じことを
願っています。
自分自身の本当の成長を
静かに、
そして熱く、
願っています。

・・・・・
これまでも度々書かせていただきましたが、
心の静けさと
心のパワーは
比例します。

心が静かであればあるほど、
私達はパワーを出すことができます。

どれだけ激しい動きを
とっていたとしても、
本当のパワーを出せているときの
私達の心は、
とてつもなく静かです。

静けさとは、
エネルギーの低さではなく、
心の調和です。

調和しているからこそ、
私達は存分に
自らのパワーを発揮できます。

真本音とは、
何の努力なしに
「すでに調和できている心」です。

ですからあとは、
反応本音をどうするか?です。

反応本音は、
「調和させよう」と思うと、
決して調和できないようにできています。
それよりも、
「いつも自由でいてもらおう」と思えば、
自然に調和の方向にいきます。

私達のざわめく心(反応本音)は、
自由でいたいのです。
好きなだけ、ざわめきたいのです。
彼らのその欲求を
心の中では
叶えてあげてください。

彼らをただ、
見守ってあげてください。
それはまるで
自分の子どもを見守る
親のような眼差しです。

そういう視点で
自分の反応本音と向き合えば、
その瞬間から私達は、
真本音の場所に
立てるのです。

ざわめくのを
好きにさせることで、
私達は、
静かになって
いくのです。

・・・・・
真本音の時代に入ったからと言って、
世の中のざわめきが
消えるわけではありません。

しかし、
それらのざわめきを見つめる
私達の視線が変わります。
その結果として、
良いざわめき、
必要なざわめきのみが
起こりやすい世の中となります。

一人の心の中で起きていることが、
そのまま社会に反映されます。
今の世の中が荒れているのは、
私達の心が荒れているからです。

しかしそれは必要な「荒れ」です。
今のうちに、きちんと
荒れておきましょう。

静かでパワーに満ちた世の中に
調和のとれた世の中に
早くなれるといいな、と
強く思います。

つづく

2012年03月13日

8次元の愛 170 〜確信してますか?

雲行きの怪しくなった空を眺める
私達の心は、
不安定となります。

雨が降るかな?
傘が要るかな?
どうかな?

振らなければいいな。
振ると、面倒だな。

すぐに出掛けようかな?
もう少し後の方がいいかな?
それとも今日はやめようかな?

迷いの心が
いくつも浮かんできます。

心とは、
迷うことで不安定になります。

反対に、
完全に決めている心、というのは
安定を生み出します。

雨が降ろうが振るまいが、
必ず何時に出掛けると決めていれば、
空模様で多少気持ちは揺れるでしょうが、
それにより右往左往することは
ありません。

・・・・・
迷いとは、多くの場合
逃げ腰の姿勢から
生まれます。

逃げ腰の根本には
現実逃避があります。
自分を守るために
逃げたい、という心です。

現実逃避は必ず
迷いを生み、
迷いは、心の葛藤を生み、
葛藤は、心を疲れさせます。

心が疲れれば、
さらに逃げたくなります。

現実が開かれずに悩む人の大半は、
この現実逃避が
心の奥にあるからです。
それに気づいていない人も
多いのです。

しかし、
逃避する心のさらに奥を観れば、
そこには必ず
真本音が存在しています。

真本音は知っています。
今、どうすることが
最善か、を。

そして真本音は望んでいます。
どんなときでも
現実と向き合おうとする
自分の姿、を。

・・・・・
確信、とは
真本音から生まれる発想です。

確信が生まれれば、
そこに「動く理由」は
必要ありません。

確信ですから、
迷いはありません。
確信ですから、
私達は、
その通りに動きます。

行動力のある人とは、
確信の強い人です。

確信の強い人とは
いつも真本音を大切に
生きている人です。

理由のない確信ほど
強いものはなく、
それにより「歴史が動いた」ことは
数知れません。

・・・・・
目の前に道が2本あったとします。
どちらに行こうか?

「いや、3本目の道があるはずだ」
と確信すれば、
必ず3本目の道が拓かれます。

「右の道に行くのが最善だ」
と確信すれば、
右の道に入れば、
道が開けます。

確信とは
そういうものです。

しかし、わずかでも迷いのある人が
「3本目があるはず」と思っても、
決して3本目は拓かれません。
「右の道がいい」と言って進んでも、
必ずどこかで壁に当たります。

迷いとは
そういうものです。

この、
「確信の人生」と「迷いの人生」の差。
これがこれから
さらに顕著になります。

つまり、
真本音を大切に生きる人は、
「ちょっと確信」すれば
すべてその通りになっていく、
という流れができやすくなります。
これまで以上に。

・・・・・
気をつけなければならないのは、
「確信しているフリ」であり、
「確信しているつもり」の
心の状態です。

本人が、本当の確信かどうかを
区別できないことがあります。

区別のつけ方は簡単です。

確信した道の行く先に、
光が
灯が
観えるかどうか、です。

それは具体的な姿である必要は
ありません。
ただ、
明確に光が観えるかどうかです。

確信とは、
その光を感じるからこそ
生まれるものだからです。

少しでもあいまいな光であったり、
光がまったく観えなかったり、
もしくは、
光が観えても、その光を観ていると
ちょっと疲れたりする場合は、
残念ながらそれは、
自分で「思い込んでいるだけの」
確信です。

そういった確信は
疲れるはずです。

本来の確信とは、
まったく疲れないどころか、
それを持ち続けることで、
どんどん心が楽になり
開放されていきます。

真本音の時代。
確信の時代。

多くの人達の確信が
満ち溢れ、
融合し、
相乗効果の幸せを
生み出し続ける時代です。

まずは、
次の一歩の確信を
自分自身が大切にしましょう。

つづく

2012年03月12日

8次元の愛 169 〜潜在と顕在を結ぶ

自分の口から
思いがけない一言が出ることが
あります。

特に、
頭で考えること、思考や理論を
超えた瞬間に
そうなることが多いです。

その一言に、
自分自身で驚き、
時には感嘆し、
涙を流すことさえあるかもしれません。

もしその一言で、
自分自身が開放感を得、
何かから自由になったり、
何かが消えてなくなるような
感覚があれば、それこそが
真本音の一言です。

魂の声です。

これまでの時代は、
それがたま〜に何かの拍子に出る、
という頻度だったと思います。
しかしこれからは違います。
それが日常茶飯事となり、
むしろ、その一言で
今日の自分の選択や行動を決める、
その一言があることが普通である、
という状態になっていきます。

それが真本音の時代の
特長です。

そうなったときに
私達は知るでしょう。
自分の思考や理論が、
いかに自分を閉じ込めていたか、
という事実を、です。

思考や理論とは
本来は、
自分の望む人生を実現するための
サポートです。
しかしそれらが「サポート」の範疇を超え、
それらが「主」となることで、
私達は、自ら望んでいない枠に
入ってしまいます。
そして、
真本音の一言が
聴こえなくなってしまうのです。

真本音の時代とは、
心が開放されている時代です。
心が開放されることで、
魂の声が表面化しやすくなるのです。

・・・・・
人生に、枠は必要です。
窮屈さも
時には必要です。

しかしその枠を
自らにはめるかどうかは、
すべては真本音が決めることです。

反応本音レベルでのそれは、
単なる自己満足で終わります。

自己満足による枠を超えても、
それは、
自己満足の成長しか
生み出しません。

自己満足の成長を
「4次元の成長」と言います。

それに対して、
これからの時代に必要とされる
真本音に基づく成長を
「8次元の成長」と
表現しましょう。

残念なことですが、
これまでは、
「4次元」と「8次元」の成長の
区別がついていない時代でした。

前向きに勉強する人であればあるほど、
実は、4次元の成長を続けていた、
というケースが極めて多かったのです。

それを続けることで苦しむのは
その人自身です。
それを続けても、
本来望んでいる人生からは
遠のくばかりだからです。
それどころか、
現実逃避に入り、
魂が疲弊してしまいます。

ようやく今、
その区別がつきやすい時代に
なってきたのです。

区別は簡単です。

自分が成長するその行く先に、
光が、
灯が、
今ここで観えるかどうか?
です。

具体的でなくてもよいのです。
ただ、
明確に光が観えるかどうか?
です。

明確ではない。
もしくは、
まったく先が観えない、
ということでしたら、
残念ながらその人は
4次元の成長にいると
判断した方がよいでしょう。

そういった場合は、
一度すべての勉強を、
自分の行なっている努力を
いったんやめて、
心静かに、
自分自身と向き合う時間を
とりましょう。

何もせずに、
自分の心を観る時間を
創りましょう。

そして、
本当は、自分は
自分のために何をしてあげたいか?
を見つけましょう。

・・・・・
本当に自己成長できているかどうか?
は、
自分自身が一番よくわかっています。

その答えを
今一度、しっかりと見つめてみる。
それが今こそ、必要です。

時代の動きは
急峻です。

1ヶ月前の空気と
今の空気は
もはや別物です。

それほど、
真本音の時代に
グングンと向かっているのが
今の私達です。

しかしそれは今のところ、
潜在意識レベルでの話です。
私達の顕在意識が
その事実に
ついて来ていません。
だからこそ、
潜在意識と顕在意識のギャップに
苦しみ始めている人が
増えています。

自分が今、本当は何をしているのか?
今、本当は何が起きているのか?
その事実を
あるがままに認識できることが
求められています。

顕在意識と潜在意識を
結ぶのです。

それをするためのサポートが
このブログの役割の一つであると、
最近わかりました。

ちょっとその要素を
強めていきたいと思います。

つづく

2012年03月09日

8次元の愛 168 〜実在に意識を向ける

地球に夜明けが訪れるとしたら
それはいつ、
どのような形で
訪れるのでしょうか?

夜明けが訪れるかどうか、は
自然の摂理ですが、
しかしその夜明けを
きちんと「夜明け」として
認識できるかどうかは、
私達人間にかかっています。

今、夜明けが近いことを
どのくらいの人達が
認識できているでしょうか?

世の中は、混沌としています。
不安は増しています。
大震災のようなことが、
次はいつ起きるのだろうか?
経済は、
破綻してしまうのではないか?
政治も、
もう限界ではないか?
私達のくらしはどうなる?
未来設計はどうなる?

夜明けというよりも、
もうすぐ太陽が沈み夜を迎えるような
不安が蔓延しています。

確かにそう。

現象レベルで見れば、
不安だらけ、
不安定だらけです。

実際に、何が起こるか
わからないのは確かです。

しかし、
私達はもっと、物事の本質に
目を凝らしましょう。
「現象」を起こす根底には、
その原因となる「実在」があります。

私達人間とは、
その「実在」をいつも創り続けています。
目の前に現れる「現象」とは、
その反映・結果に過ぎません。

「現象」にのみ目を奪われているうちは、
本来自分の為すべきことには
気づけません。
次の最善の一歩を見つけるには、
「実在」にこそ、目を凝らすのです。

・・・・・
人と向き合うとき、
私はいつもその人の「実在」を観て、
感じています。

表面に現れるその人の言動や振る舞いは
それはそれで大切です。
そこから目をそらすのではなく、
その「現象」をあるがままに受け取ることで、
その「現象」の根本にある「実在」が
自然に観えてきます。

一見、「良くない」と思われる「現象」でも
その根本の「実在」が真本音に基づくものならば、
何もする必要はありません。
「現象」とは一過性のものですから、
単なるプロセスに過ぎません。
「実在」が真本音であるならば、
その人は間違いなく
「調和」を生み出す方向へと
最善の舵をとり続けます。

ということをこれまで
さんざん、目の当たりにしてまいりました。

ですから今、実感できます。
多くの方々が、
「夜明け」を迎えようとしている、と。

それが多くの方々の
今の「実在」であると。

人が「夜明け」を迎えることが、
「地球の夜明け」です。

地球と人を
分けて考えるのではなく、
地球と人を
「一つ」として捉えましょう。

私達自らが「夜明け」を迎えることが
「地球の夜明け」に
直結するのです。

・・・・・
「実在」とは
心の中にこそ、存在します。

心の中にある「実在」に
目を凝らしましょう。

幻影ではなく、実在です。

消えたり揺らめいたりするものではなく、
確固として「在る」ものです。

「在り続ける」ものです。

今のあなたにとって
それは、何ですか?

そこに意識を向け続けると
その行為自体が、
私達の真本音を活性化してくれます。

なぜなら、
真本音とは、「実在」の塊だからです。

真本音こそ、
あらゆる現象を超える、
確固たるものなのです。

真本音の時代とは、
「実在」が瞬時に「現象」化される時代
と言ってもよいでしょう。

自らの「実在」に気づきましょう。
「実在」がどのように「現象」を創っているかに、
気づきましょう。

それができれば、
間違いなく「夜明け」の実感が
高まります。

つづく

2012年03月08日

8次元の愛 167 〜向き合うことで実感する

気楽に生きることと
真剣に生きることが、
イコールとなるのが、
真本音の時代の特長です。

もともと私達人間の心とは、
現実逃避をすればするほど、
深刻になるようにできています。
疲弊するようにできています。

真剣になればなるほど
心が気楽になっていくというのは、
実は、最初から同じです。
その「当たり前」のことを
多くの人達が思い出している状態が
真本音の時代の基本となります。

真剣に現実を観て、
真剣に発想して、
真剣に行動する。
それにより、
肩の力が抜けていきます。
心だけでなく、
体も楽になります。

真剣さが無理を生むのではなく、
真剣でないことが、
無理を生み出してきたことを
大半の人が思い出します。

そして皆が、
真剣に関わり合うようになります。

真剣に向き合う世の中です。

・・・・・
真剣な向き合い方は、
人と人のつながりを
実感として思い出させてくれます。

人は結局は一人であり、
孤独である。

そういった「思い込み」が
これまでの時代、
消えることはありませんでした。

しかし、そこから私達は
脱皮をします。
それにより、
お互いが自由になれます。

人と人のつながりは、
理屈ではありません。

自然に「実感」できるものです。

「本当は
つながっているのだから云々・・・」
と頭で考える必要は
まったくありません。

つながっていることが「事実」ですから
事実を体で感じるだけです。

それは、
熱湯に指を入れて「熱い!」と
感じることと同じです。
おいしいごはんを食べて
「美味い!」と感じることと
同じです。

ただ感じるだけ。
事実を体感するだけです。

そしてその「つながり」があるからこそ、
私達は「自由」になれます。

今日、私のクライアントさんが
素敵なことを言われました。

「自由とは、
つながっているからこそ
得られるもの。」

つながり感のない自由は、
本当の自由ではありません。
つながり感の喪失そのものが
「束縛」です。

束縛の中で、
いかに「自由であろう」としても、
そこに本当の自由は実現しません。

その「つながり」を得る唯一の方法が
向き合うこと、です。

・・・・・
一人の直観は、
たかが知れています。

人と向き合う中で生まれる直観は、
質も量も、次元が違います。

私達人間は、
「向き合うために存在している」
と断言してもよいくらいに、
向き合うことは
人間の本分、です。

それをしていないのは、
人としての本来の喜びを
知らずにいる、
と言ってもよいでしょう。

向き合うことで、
愛のパワーは増幅し、
人と人の間を渡ります。

向き合うことで、
私達は自らの存在意義を
実感できます。

そして、
向き合うことで、
私達は、お互いがなぜここにいるのか?
その本当の理由を
知ることができます。

・・・・・
意識を
相手に向けましょう。

自分の思考に向けるのではなく、
ただただ、
自分の意識の先を、
相手に向けましょう。

それが「向き合う」基本型です。

体だけ向かい合っても、
それは「向き合う」ことにはなりません。
意識が、
完全に相手に注がれて初めて
それは成されます。

お互いの意識の矢印が交差するからこそ、
そこに「パワー」が
生まれます。

それを、
愛、と言います。

愛、とは、
気楽なものです。

つづく

2012年03月06日

8次元の愛 166 〜枠を見つけるために

私達は「枠」を超える存在ですが、
そんな私達にとって大切なのは、
今の自分の目の前にある
「枠」に気づくことです。

枠に気づくために必要なのは、
心を自由にすることです。

自由になることで、
初めて不自由なものに
気づきます。

自由でない状態のまま枠を探すと、
本当の枠とは別の枠を
自分の取り外すべき枠である、と
勘違いすることがあります。
それを取り外すことで結果として
さらに枠を重ねてしまう、
ということは、実は
極めて多いのです。

自由な目で
枠を探しましょう。

自由な目、とは
ニュートラルな目、
でもあります。

・・・・・
面白い実験をしてみましょう。

いつも行きつけの場所に
行ってみてください。

例えば、いつも行く喫茶店などで
結構です。
公園でも通り道でも、駅でも
どこでも結構です。

その場所に着いたら、
しばらくそこにいてください。
その場を、ただ
観察してみてください。

いろいろなものを
よ〜く観察するのです。

ただしその時に、
一切の評価・判断・解釈などは
しません。
ただ、観る、だけです。

よ〜く観ます。

その時点で、
これまでにない気づきを得るかも
知れません。
しかし、その気づきから
思考に入らないでください。

思考とは、
評価・判断・解釈に
つながってしまうからです。

そうです。
自由な目・ニュートラルな目とは、
一切の評価・判断・解釈から
開放された目線ということです。

充分に観察できたな、と
思えたら、
その場を離れます。

あとは何もしません。

ただ、その後
ふとした「気づき」や
「発想」が生まれたら、
それをすかさず、
メモします。

その「気づき」や「発想」が
自由な目線から生まれた
ものです。
そして、
メモしたそれらを眺めながら、
さらに「気づき」や「発想」が生まれれば、
やはりそれも
次々にメモしていきます。

いつもの自分の発想と、
その発想は
どのように違うでしょうか?
まったく同じでしょうか?

まったく同じであれば、
その人は、いつも比較的
自由な目線でいる、ということです。
これまでにない発想が
次々に生まれる場合は、
残念ながらその人は、
普段は自由な目線とは違う状態で
いたことになります。

自由な目線とは、
意識を「外に向け続ける」目線です。
あらゆるものを
「あるがままに捉える」目線です。

その目線でいる人こそが、
自らの「枠」に気づけます。

・・・・・
「枠」に気づいたら、
その「枠」を外そう、と
しないことです。

ただ、
「枠」を「枠」として
認識し続ければ、
それでOKです。

それを続ければ、
それは自然に外れていきます。

それは、
心の中の枠であったとしても、
環境における枠であったとしても、
同じことです。

私達の本能は、
「枠」を外そうとしています。
「枠」を外すことを通じて
進化をしようとしています。

ですから、「枠」を発見すれば、
それは私達が本能的に
自然に超えて行くのです。

その「自然さ」に
委ねましょう。

「枠」を一つ外せば、
次の「枠」が見つかります。
すると私達はまた
それを超えて行きます。

それが私達の本能であり、
性(さが)であり、
真本音の願いです。

つづく

2012年03月03日

8次元の愛 165 〜無限の気づき、と共に

発想の始まりについて
考えたことはありますか?

例えば、
今自分の中に浮かんだ一つの発想。
これが
どこから生まれ、
どこから来たのか、
考えたことはありますか?

すべての発想には
「始まり」があります。

「始まり」は
自分自身の心である場合も
多いですが、
そうでない場合も結構あり、
それが面白いところです。

私達はもともと「一つ」です。
ですから、
体は別個の存在であったとしても
真本音ではつながっています。

プールのイメージをしてみてください。

大勢の人達がプールで
遊んでいます。
プールの水が「源」だとします。
みんな、「一つ」の中に
一緒にいます。
しかしそれぞれの体は別個です。
特に水面から上に出ている体の部分は
完全に別個です。
そこが反応本音の部分です。
しかし水の中にある体は
別個ではありますが、
「一つ」である水の中に
みんなと一緒にいます。
それが真本音です。

A君が綺麗な赤い石を持っていたとします。
その赤い石をA君があなたに
くれたとします。
「これあげる」と言って、
手渡しでくれました。
それを水面より上で行なった場合、
通常のコミュニケーションとなります。

ところが、
A君があなたの気づかないうちに、
そっとあなたの海水パンツのポケットに
(海水パンツにポケットがあると
 してください。笑)
赤い石を入れたとします。
あなたに気づかれないように
水中でそれをしました。
あなたはしばらく自分が赤い石を
持っていることに気づいていませんでしたが、
ふと、自分の海水パンツのポケットに
「あれっ? 赤い石が入ってる!」
と見つけたとします。

あっ! 赤い石だ!

これを、「気づき」と言います。
「ひらめき」とか「直観」と
言ってもよいです。

水中での石のやりとり、
それが真本音コミュニケーションです。
それは多くの場合、
水である「源」を通じて行なわれます。
今の例では、
A君は意図的に赤い石を
あなたのポケットに入れましたが、
通常の真本音コミュニケーションでは
A君自身も無意識に
それを行なっています。

ですから、
A君自身が赤い石をあなたにあげたことに
気づいていません。
あなたも、A君からそれをもらったことに
気づいていません。

しかし、
ある時あるきっかけで、
その赤い石の存在に気づくわけです。

しかも、次のようなことも
よく起こります。

海水パンツのポケットの中に
あなた自身が青や黄の石を
持っていたとします。
そして、赤い石の存在と共に、
青や黄の石の存在にも同時に
気づくということもあるのです。

あなたはポケットから
3つの石を取り出します。

あぁ、きれいな3つの石があった!

赤・青・黄。
まるで信号機みたいだな!
と、あなたは笑います。

もし、A君が
赤い石を入れてくれなかったとしたら、
ただ、あなたがもともと持っていた
青と黄の石だけに気づいていたとしたら、
「信号機」という発想は
生まれません。

自分の中にあるもともとの発想と
A君のくれた発想。
それらが織り交ざり、
新たな発想を生み出します。

・・・・・
さらに、次のようなことも
言えるのです。

上記の例では、A君が直接
あなたに赤い石を届けました。
たとえそれが無意識だったとしても。

しかしそうではなく、
A君が自分の赤い石を
誰に渡す、ということもなく
ただ水中に解き放つこともあるのです。

A君から解き放たれた赤い石は
水中をブラブラと浮遊します。
そしてその浮遊している赤い石を
必要に応じて
あなた(の真本音)が受け取るのです。

そういった形で、
水中にはたくさんの石が
浮遊しています。

・・・・・
浮遊している石を受け取ったり、
直接、受け渡したり・・・。
このように私達は、
水面下で様々なコミュニケーション、
真本音コミュニケーションを
取り合っています。

そしてそれらの集積により、
ある時あるきっかけで
発想が浮かびます。

さて、最初の問いです。

自分の発想の始まりは
どこだと思いますか?

・・・・・
「源」とは、
発想の宝庫です。

それを
「無限の気づき」と
表現される人もいます。

私達はその
「無限の気づき」と
いつもつながっています。

真本音を大切に生きる、とは
「無限の気づき」と共に
生きるということでもあります。

ですから私達は
孤立もしていませんし、
孤独でもありません。

別個の存在では
ないのです。

それを多くの人達が思い出し、
「無限の気づき」を活かし合う社会。
それが真本音の時代における
社会の在り方です。

「無限の気づき」は
無限に進化し、
無限に拡がり続けています。

それができるのも
私達人間の大いなる力です。

つづく

2012年03月02日

8次元の愛 164 〜不安定こそ安定の始まり

見違えるほど自分が変わった
というご経験はありますか?

私は、あの日を境として
別人のように変わった、
という経験です。

インパクトのあるできごとに遭遇したり、
ある人と出会ったり、
もしくはある一定期間の継続体験によって
自分が根本的に変わる、ということが
起こり得ます。

それがきっかけで
人生が根本的に変わる、ということが
起こり得ます。

それは劇的な展開ですが、
すべて必然的に起きています。

急角度の変化が
必要なときがあるのです。

急角度の変化は
私達の「心の立ち位置」を変えます。
立ち位置が変わることで
私達は一時的に不安定状態に入りますが、
その後に
それまで以上の「安定」を
手に入れます。

ところが、
その「安定」が手に入る前に、
必死に安定の場所を探すことで
中途半端な立ち位置に留まってしまうことが
あるのです。

本来、落ち着くべき立ち位置とは
少し違う立ち位置に降り立ち、
「ここでよいのだ」と
思い込んでしまうことがあります。

すると、次のさらなる成長への一歩が
淀みます。
結果として、本来の自分への道のりが
遠くなることがあります。

それはそれで一つの経験ですし、
遠回りをしても結局は
私達は本来の自分に戻っていきますが、
しかしわざわざそれを
する必要もありません。

「不安定状態」にあるときは
無理に安定させようとせずに、
そのままでいることです。

力を抜くのです。

水の中で拡散された砂が
しばらく水の中を浮かびながらも、
最後にはきちんと水底まで戻るように
自然の流れに任せるのです。

それが結果的には
最速の成長になります。

・・・・・
なぜそれをご説明するかと言いますと、
上記のような自分自身の「劇的な変化」が
これから頻繁に起こる可能性が
あるからです。

人によってはそれが
毎日のように続く可能性があります。

これが続くということは、
心が不安定なままに前に進む状態が
長くなります。
その不安定状態を
恐れないでいただきたいのです。

力を抜き、
そのままでいていただきたいのです。

心がどれだけ不安定でも
私達の真本音は
決して揺るぎません。

むしろ、
心が不安定状態で、
「どうすればよいかわからない」
という状態ほど、
真本音の活性度合いが高まったり、
真本音の自分が浮上しやすくなります。

そして、
不安定状態にも関わらず
安定した揺るがない自分を実感する、
という体験にもなります。

どのようなときであっても
私達の真本音は
最善の一歩一歩を
私達に見出してくれるという
貴重な体験ができます。

不安定も必然。
そのままに、です。

・・・・・
この心の在り方は、
世の中全体の在り方とも
一致します。

今は世の中全体が「劇的な変化」に
入ってます。
その「劇的さ」は
これからさらに増していきます。

すると、世の中の不安定さは
これまで私達が体験したことのないレベルまで
行き着くでしょう。
その時に、
その不安定を無理に安定させようとしても
残念ながら、その後の真の安定は
手に入りません。

不安定な中でこそ、
本当に揺るがないもの、
本当に大切にすべきものを見出し、
そこからの視点を持つことで、
世の中全体の真本音が活性化します。

不安定であることを治そうとせず、
不安定な中でこそ明確になる「安定」を
大切にするのです。

本当の「安定」とは
不安定の中でしか、姿を現してくれません。
その体験のできる
貴重なチャンスに私達はいます。

心の動きと
世の中の動きは
本質は全く同じです。

それはそうです。
世の中を創っているのは
人です。
人の心ですから。

私達一人ひとりが
自分の心の見方と動かし方を
自然に即したものとすることで、
世の中全体の進化も
自然に即したものとなります。

不安定を
楽しんでまいりましょう。

つづく

2012年03月01日

8次元の愛 163 〜筋書き人生の喜び

人生に筋道は必要です。
しかし、
人生の筋道を頭で考えてから進むと、
それは本来の筋道から
外れてしまうかも知れません。

筋道とは、
後から振り返ることで
初めて明確になるものです。

筋道は、
私達の真本音がよくわかっています。
私達が望む筋道の視点から、
真本音はあらゆる発想をします。

ですから、
自分の真本音を大切にすることで、
自然に、人生の筋道は
出来上がって行きます。
自分の
本当に望む筋道が。

・・・・・
筋道を「筋書き」と言い換えてみますと、
また少し面白い視点となります。

私達はもともと、
自分自身の人生の「筋書き」を
決めています。
そして、
「筋書き」通りに
進もうとします。

それをしているのは、
私達の真本音であり、
私達の表層意識や思考では
ありません。

しかし、
真本音が「筋書き通り」に行こうとしても
そうはいかないのが
この3次元世界です。

私達の真本音は
すべてを知っていますが、
だからと言って、
筋書き通りにはいかないのです。

そこが人生の醍醐味でもあり、
3次元世界の意義でもあります。

「筋書き通り」にいかない現実の中で、
真本音はしかし、
最善の道を探ります。

その「筋書き」には
根元があるのです。
「なぜその筋書きで行くのか?」
という根本的な願いがあるのです。

その「願い」を尊重することで、
たとえ「筋書き通り」にいかなくとも、
次の最善の一歩と、
新たな「筋書き」を発想することが
瞬時にできます。

それこそが
真本音の力であり、
私達人間の
本質的な力です。

・・・・・
さらに、
私達の真本音同士は
つながっています。

もともと「一つ」である源から
別個の存在として生まれてきたのが
私達です。
別個ですが、つながっています。
そのつながりをいつも
自覚しているのが
真本音であり、
そのつながりを尊重しているのも
真本音です。

ですから、
どれだけ「筋書き」が変わり、
新たな「筋書き」を創っても、
それは必ず、
「隣の人の筋書き」と
調和します。

ひょっとすると、
本質的な調和のために
私達は自らの「筋書き」を
書き変えることをしているかも
しれません。

すべてそれは
真本音の判断であり、
真本音同士のコミュニケーションに
よるものです。

・・・・・
筋書き通りの人生は
つまらないのでは?と
お感じになるかも知れません。

しかし、
筋書き通りの人生は、
かなり面白いですよ。

何が筋書きか?
は、私達は顕在意識では決して
わかりません。
しかし、
「あぁ、今、筋書きに乗っかっているな。」
「筋書き通りに進んでいるな。」
と実感できる瞬間は
結構多いです。

その実感に溢れているとき、
私達は、魂レベルの充実感と
喜びを感じます。

そして、そこに
自由である自分自身を
腹の底から感じます。

面白いですね。

筋書きに乗るからこそ、
私達は自由を感じるのです。
その奇妙な実感は、
多くの方がおわかりになるのでは
ないでしょうか。

・・・・・
真本音の時代は、
筋書きと筋書きの
コラボレーションの時代です。

一見すると、
筋書きとは思えないような
破天荒な流れが生まれるかも知れません。
しかし、
その根底には、
見事なまでの調和が
存在しています。

それを理解した瞬間の喜び!

それらを皆で感じ合える。
それが真本音の時代です。

つづく