こんにちは、竹内です。

コーチングというお仕事をさせていただいております。
私はとてもマイペースでのんびりしていますので、カタツムリのようだと言われます。
「コーチ・エスカルゴ」などとも呼ばれています。
ブログというのも、実は初めて書きますので、何を書けばよいのか・・・。
考えていてもわからないので、とりあえず、書き始めることにしました。
あとはのんびり、自然な流れに乗りながら、だんだんとコンセプトを固めていきたいと思います。

2013年05月30日

8次元の愛 258 〜普通の私で行けばいい

もし、
自分の寿命を
自分で決められるとしたら、
何歳まで
生きたいですか?

そしてその寿命まで
残された年月で
何を為したいですか?

・・・・・
上記の問いの答えを
私達の真本音は
明確に
決めています。

もちろん
真本音通りの寿命に
終わらない人も
いるでしょう。

予定外の展開と
予定外の現実によって
人生は変わるでしょう。

しかしそれらはすべて
私達の反応本音による
影響です。

「予定外」と思うのは
私達の反応本音。
反応本音はすぐに
右往左往します。
そして、
右往左往に反応した
判断と決断を
してしまいます。
その結果として
自分の本来の道を
外れてしまいます。

本当は、
どんなときも
真本音で決めている
道があります。

そして真本音は
「予定外」などとは
思いません。
真本音はいついかなるときも
すべての現実を
静かな眼差しで
ただ見つめています。

ですから
どのような現実が来ても、
一度しっかりと
真本音の自分を
思い出すことです。

本来の自分の立ち位置に
戻ることです。

そうすれば
道は自ずと観えてきます。

私達はすでに
真本音で望む人生が
あります。

自分で決めた寿命。
自分で決めた道。
自分で決めた使命。
自分で決めた
立ち向かうべき現実。

その方向に進むことが
私達が最も
心満ちる人生です。
人としての
幸せです。

・・・・・
迫りくる現実を
誰かのせいに
しないでください。

それをしているうちは
決して
真本音の道は
観えません。

迫りくる現実を
自分のせいに
しないでください。

自分をどれだけ責めても
決して
真本音の道は
観えません。

自分を責める、とは
一見すると謙虚な行為ですが、
逆です。
それは、最大の
傲慢です。

責めるよりも
私達には
すべきことがあります。

その現実と
向かい合うことです。
その現実に
立ち向かうことです。

それが本当にできれば
身に沁みて
わかるでしょう。

誰かが
悪いわけではない。
自分が
悪いわけではない。

すべては
必然の流れであり、
すべては
自分の望む人生を
歩むための
ステップである、
と。

そして
「責め」から抜け出し
「願い」に向かうことで
自分だけでなく
周りのあらゆる人達の人生も
調和に向かいます。

・・・・・
反対に
「いい人で在り続けよう」
とする人もいます。

いい人で在り続けよう
とする人は
必ず自分の知らないところで
誰かを傷つけています。

いい人だと
認識しているのは
本人だけです。

それを
自己満足、
自己愛、
と言います。

これも
反応本音で生きることの
典型です。
自らの本当の道を
進めなくなる
典型です。

もちろん
変に悪者ぶったり、
意図的に
悪者になる必要も
ありません。

普通でよいのです。

自分そのままで
よいのです。

私達の心の中には
たくさんの反応本音が
あります。
中には「いい人(人格)」も
「悪い人(人格)」も
います。

それらすべてを
ひっくるめて
人間です。

どの人(反応本音)が
本当の自分か?
を考える必要もありません。

どの人もすべて
自分です。
自分の反応本音です。

すべての反応本音は
そのままでよいのです。
すべてを
大切にしていれば
よいのです。

ただ、
私達はいつも
真本音の場所に
戻りましょう。

すべての決断は
そこからしましょう。

真本音を
思い出せば、
自分の道を
思い出します。

自分の道すべてを
見渡すことができなくとも
次の一歩は
わかります。

どの一歩は気持ち悪く、
どの一歩は
気持ちが良いのかが
わかります。

気持ちの良い方向に
一歩を踏み出せば
よいのです。

意図して
「いい人」になるとか
「悪い人」になるとか
そんな面倒なことは
もう必要ありません。
特にこれからの時代は。

・・・・・
もっと
普通に行きましょう。

もっと
普通に生きましょう。

ゴチャゴチャ
モヤモヤ
考えてしまうときは
すべての決断を
やめましょう。

時間を置いて、
スッキリ決断できるときを
待ちましょう。

モヤモヤから生まれる
いかなる答えも
ただの反応です。

真の答えは
ちゃんとあります。

それは
自然な心、
ニュートラルで普通な心
であるときに
初めて観えるものです。

普通の自分に
戻ればよいのです。
普通の決断を
すればよいのです。

つづく

2013年05月28日

8次元の愛 257 〜あなただけが大切にできる

いくつもの道が
私達の前にはありますが、
どの道をとるかを、
私達はすでに
決めています。

そしてその道以外の道は
決して通らないことを
私達はすでに
決めています。

にも関わらず、
決して通らないでおこう
と決めたはずの道を
通ろうとすることが
あります。

実際に、
その道に入ってしまう人も
います。

自分が通らないと決めた道に
入ってしまった人は
激しく苦しみます。
あまりに激し過ぎるので
その苦しみを麻痺させたり
フタをしたりすることに
全力を注ぐように
なります。

当然、
自分に迫りくる現実に
向き合う余力など
ありません。

ですから全力で
現実逃避を
続けます。

それはもうある意味
凄いパワーです。
自分の命の力のすべてを使い、
現実逃避を
続けます。

残念ながら
そうなってしまっている人を
サポートする術を
私は知りません。

その人には
何を言っても
聞き入れてもらえません。

あなたは苦しんで
いるのですよ。
その苦しみから
出ませんか?

そんな一言を言おうものなら、
いえ、
言う気配を少しでも
見せようものなら、
全力の拒絶が
返ってきます。

周りの人達の
あらゆる愛と
あらゆるやさしさを
その人は
完全に拒否します。

本当にとても
残念なことですが、
真本音の時代の直前になって
そうなってしまう人が
急増しています。

・・・・・
なぜ、
行きたくもない道に
行くのでしょうか?

残念ながら
その明確な答えも
私にはわかりません。

ただわかるのは、
その人は
真本音の道を進むことを
極度に恐れています。

もっと正確に言えば、
真本音の道を
全力疾走することは
その人の体験したことのない
一つの「境界」を
超えることになります。
その「境界」の直前まで来ると、
その人は急にストップし、
「境界」から逃げるようにして
他の道に無理に入って
しまいます。

これまでの自分の人生。
これまでの体験。
それらすべては、
その「境界」を超えるために
あったと言うのに、
やっと「境界」まで
たどり着いたのに、
いざそれを超えようとするときに
突然、逃げ出してしまうのです。

なぜなのでしょう?

なぜこれまでの努力を
自ら投げ捨てて
しまうのでしょう?

・・・・・
「境界」を一歩超えれば、
そこにはずっと望み
求め続けていたものが
待っています。

これまでの自分、
これまでの人生、
これまでの道のりのすべてを
承認し祝福することが
できます。

そして、
まっすぐに伸びた
太くて清々しい道が
目の前に明らかになります。

あぁここを行けばいいんだな、と
いやでもわかります。

そして
自分にとって
最も気持ちのよいペースで
その一本道を
進むことができます。

それこそが
人としての本来の幸せでは
ないでしょうか。

そんな幸せを感じる人が
ある一定以上を超えることで
真本音の時代は
始まります。

実際に多くの人が
一本道を
見つけました。
しかし、
その一方で
一本道の手前で
外れてしまう人も
増えています。

・・・・・
どうか、
決めていることを
決めている通りに
実行してください。

決めている道を
決めている通りに
選択してください。

頭で思考し
判断してから
決断しないでください。

そこに答えは
ありません。

私達はもう
決断しているのです。

すでに
決断している答えの通りに
進むだけです。

進む人の心には
新たな世界に入る恐怖は
ほとんど湧きません。

止まって動かずに
考えてしまうから
恐怖が湧きます。

どうか、
勇気をもってそのまま
進んでください。

あなたの道を
大切にできるのは
あなただけですから。

つづく

2013年05月27日

8次元の愛 256 〜共に走るとき

私達は
一人ではありません。

現象レベルで
どれだけ一人であったとしても
私達は
一人ではありません。

私達は誰もが
孤独を恐れます。

しかしそれは
杞憂にしか
過ぎません。

なぜなら
実在レベルでは
必ず皆と共に
いるからです。

皆とつながり
世界とつながりながら
ここにいるからです。

実在レベルで
一人になるということは
あり得ないのです。

それが実在であり、
私達の心の「もと」です。

・・・・・
なのになぜ
私達は孤独を
感じ、
恐れるのでしょうか。

そこには理由が
あります。

孤独を恐れる心とは
一つの合図です。

今、自分が
何らかの理由により
「分離」する方向に
意識を向けていますよ、
という
合図です。

その合図は
自らの真本音が
発信しています。

「分離」する方向に
意識を向けることで
「愛」とは逆の
パワーが発されます。

それは人々の
パワーを奪うパワー
です。

そのパワーにさらされることで
人々は分離の方向に
引きずられます。

そのような
負の影響を与える前に
気づいてほしい。
今の方向は
違うのですよ。
今の心の在り方は
違うのですよ。

あえて言葉にすれば
そんなメッセージを
真本音は送っています。

孤独が怖いのに
さらに孤独の方向に
行ってしまう。
孤独などないのに
勝手にそれを
自分で創り
はまり込んでしまう。

それが私達人間が
陥りがちな
クセです。

そう。
クセです。

・・・・・
何をしようとも、
何をしなくとも、
私達はいつも
共にいます。

手放しても
手放さなくても
私達はいつも
共にいます。

愛しても
愛さなくても
私達はいつも
共にいます。

それが私達の
実在であり、
真実です。

今、
真実を感じ取る感性を
取り戻した人ほど、
真実を観ることを
怖がる傾向にあります。

そこにある実在を
観ることを
怖がります。

ここまで観て
感じ取れる自分に
ようやくなれたのです。

ならば、
すべての真実を
あるがままに
観てみましょう。

・・・・・
ゆっくりと
思考錯誤を繰り返しながら
進むという
これまでのような
時間の使い方は
もうできません。

3歩あるいて2歩下がる、
という進み方も
もうできません。

今の私達にできるのは
真一文字に
全力疾走することです。

それは
危ういことではありません。

それだけ道が
太くてまっすぐな道が
整備されたのです。

これまでのように
細くて消えそうな道を
探しながら、
進む必要はないのです。

誰が走っても
大丈夫な道。

誰が走っても
全力疾走できる道。

それがもう
ここにあるのです。

だから
走りましょう。
全力疾走できる幸せを
感じましょう。

全力疾走だからこそ
感じられる風を
楽しみましょう。

つづく

2013年05月23日

8次元の愛 255 〜生まれ変わるようなもの

時代が変わるのだ
という認識を
私達はもっともっと
持った方が良さそうです。

私達はどうも
過去の経験によって
得られたものに
執着し過ぎです。

例えば、「強み」。

個人でみても
企業でみても、
強みを活かそう
と、よく言われます。

確かにそれは
とても大切なことです。

しかし
今、私達が認識している強み
とは、
反応本音の時代における
経験の中で
顕在化したものに
過ぎません。

それが自分の
本来の強みである、
と思い込むことで
自分という人間を
解釈という枠の中に
閉じ込めてしまうことに
なりかねません。

いえ、むしろ
そういった方が
今は増えています。

自分には
こういった強みがある。
我社には
こういった強みがある。
という、
これまでの経験に基づいた
認識は
いったんすべて
白紙にしましょう。

その方が
これから芽を出そうとしている
本来の強みが
つまり、
真本音の時代の中で
発揮されるであろう
本来の強みが
楽に伸びていくでしょう。

そうです。

私達の本来の強みとは
これからようやく
芽を出すのです。

それらの多くは
自分にとって
まったく予想外の
ものばかりなのです。

・・・・・
私はこういう人間だ。

私にはこういう
魅力がある。

私の強みはこうだ。

・・・これらはすべて
解釈です。

解釈とは
反応本音の時代を
生き伸びるための
知恵でした。

でももう、
時代は変わるのです。

真本音の時代とは
解釈によって
生き伸びる時代では
ありません。

真本音の時代は
解釈を手放す
時代です。

手放したときに
初めて観えてくる本質を
大事に
育む時代です。

残念ながら
現時点ではほとんどの人が
自分自身の本質を
知りません。

本来の自分とは別の自分を
「自分である」
と思い込んで
生きています。

そこからいかに
抜け出すか?

それが今の
私達共通の
テーマです。

・・・・・
自分自身への解釈は
私達の進むスピードを
極端に
遅らせます。

喩えれば、
本来は新幹線くらいの
スピードで進めるのに、
解釈をするために
三輪車くらいのスピードに
落ちてしまっています。

それくらいの差が
いえ、
もっと大きな差が
あるのです。

私には
こういう経験がある。

・・・やめましょう。

私には
こういう能力がある。

・・・やめましょう。

私には
こういう人脈がある。

・・・やめましょう。

私には
こういう夢がある。

・・・これすらも
やめましょう。

すべて解釈です。
反応本音の時代において
培われた
解釈に過ぎません。

すべてを
手放したときに
初めて、
本当に自分の中に抱いていた
あらゆるものが
芽を出すのです。

それが
本来の
私達です。

・・・・・
そういった意味では
私達は
これから生まれる、
と言っても
過言ではありません。

あえて言うならば、
一度ここで生まれ変わって
新たな人生を
始めるようなものです。

もちろん
置かれている環境や
現実は
変わりません。

でも本当は
これまでの解釈を
手放せば、
置かれている環境も
現実も
新幹線くらいの速さで
変化します。

自分にとって
本当に望む環境や
現実に
一気に変わっていきます。

そういう意味では本当に
生きながらにして
生まれ変わる、
と言ってもよいでしょう。

それが今なのです。

それくらい極端な
時代の転換点に
私達はいるのです。

その現実を
私達はもっともっと
深く受け止めましょう。

つづく

2013年05月22日

8次元の愛 254 〜調和のための加速を

私達の行く手を阻むものとは、
これまでの時代
混沌や混乱のもと、でしたが
これからの時代は、
一時的にはそうなるにせよ、
すべては
調和のために
存在するものです。

つまりそれは
行く手を阻む
のではなく、
より深い調和を
生み出すために、
あえて一度
全体を揺らす
ために起こるのです。

揺らぎのないところに
進化も成長も
ありません。

揺らぎとは
調和のための
大切なプロセスであり、
本来の調和とは
揺らぎを伴うものです。

止まっている安定
とは
調和ではありません。

止まっている安定
とは
衰退です。

私達人間は
調和のために
揺らぎを起こすという
とても重要な役割を
担って生きているのです。

・・・・・
調和とは
創造するものです。

つまり
創造とは
調和によってもたらされます。

そして逆に
調和とは
創造の中でこそ生まれます。

創造のない調和はなく
調和のない
真の創造も
あり得ません。

それが本来の調和。

真の調和があるからこそ
私達は
進化し続けるのです。

・・・・・
ゆっくりと物事が進む
ということが
これからは
かなり少なくなります。

ゆっくりと進むことは
これからは
怠慢、となります。

怠慢とは
衰退です。

どれだけ進んでいても
そのスピードが
本来のものでなければ
それは衰退と
なります。

厳しいですか?

いいえ。
それが楽なのです。

私達の経済速度、
私達の最も快適な速度は
私達が思っている以上に
速いのです。

これまでの時代の流れ方が
遅すぎたのです。

私達が望む
本来のスピードに
これから戻っていきます。

今ここにある「現状」というものに
しがみつく人は
残念ながら
その流れには乗れず、
苦しみます。

現状にしがみつくことは
もはや安定でも
安心でも
ありません。

それは
衰退への恐怖に
他なりません。

これからの時代、
止まっていることは
恐怖となります。

厳しいですか?

いいえ、
それが快適なのです。
私達人間は
もともとそのように
できているのです。

・・・・・
今、
何を変えたいか?

今、
何を変えるべきか?

今、
何を変える必要があるのか?

この3つの問いすべてに
共通する答えがあれば、
それは必ず
変えましょう。

今すぐに
変えるための動きに
入りましょう。

今すぐに
始めなければ
今すぐに流れに
乗り遅れます。

最初はそのスピードに
乗ることに
怖さを感じるかも知れませんが、
大丈夫、
すぐに慣れます。

それが
私達の本来のペース、
快適なスピード
です。

流れそのものは
もうすでに
できあがっています。

あとは
勇気(遊気)一つで
一歩を踏み出す
だけですね。

つづく

2013年05月21日

8次元の愛 253 〜仲間の見つけ方

私達の人生とは
自分一人だけで開くようには
できていません。

自分以外の人、
つまりは「他者」と
関わり合いながら
開いて行くように
できています。

他者と共に向き合い、
他者と共に創る。

それが人生の
原則です。

ということは
私達一人ひとりには必ず
「仲間」
がいます。

ここで言う「仲間」とは
共に同じ人生の使命と
テーマを持ち、
共に良い関わりを持つことで
人生を開き合うという
縁を持った人、
という意味です。

私達には必ず
仲間がいます。

いない、人は
一人もいません。

私達は
孤独では
ないのです。

・・・・・
仲間と出会えるかどうか?

そのポイントは、
仲間以外の人達との
関わり方にあります。

仲間であろうとなかろうと
共に向き合い
共に創ろう
という意志を持ちながら
日々を進む人は
必ず仲間と
出会えます。

しかしそうでない人は
なかなか出会えません。

仲間に引き合わせてくれる人は
仲間以外の人達です。

つまりは、
すべての人が仲間である
という気持ちで関わる人こそに
本当の仲間が
現れるのです。

・・・・・
私達には最低、
自分以外の5人の仲間が
います。
つまりは自分を含めて
6人の仲間です。

しかしだからと言って
その5人を数えながら
捜さないでくださいね。
それをするうちは
勘違いばかりを
してしまいます。

その人が仲間かどうかは
後になってわかること。
自分の思考の範囲内で
勝手に解釈しないことです。

6人の仲間が出会える人生は
とても幸せです。
そんな人生を
歩みましょう。

そのためにはやはり、
仲間かどうかを判別せず、
ただ純粋に
一人ひとりと真摯に
向き合いましょう。

・・・・・
真摯に共に向き合い、
真摯に共に創ろうとし続けた
その結果として、
この人とはもっと距離を置こう

自然に思えるときもあります。

そういったときは
距離を置きましょう。

離れることが
悪いわけではありません。

私達には
調和をし合える距離感
というものが
誰しもあります。

これまで近かった人と
遠くになるというのは
冷たいようであり、
寂しいものでもありますが、
しかしその決断を
しっかりとすることも
大切です。

距離を置くからこそ
共に向き合い
共に創り出すことが
可能となるのです。

しかしやはりその判断も
思考の範囲内で
解釈しないでください。

ちゃんと向き合えば、
距離感も
自然にわかります。
素直にわかります。

淀みなくそれがわかったら
そのまま従うことです。

離れた瞬間は寂しくて
心も痛むかも知れませんが、
それでも間違いなく
調和し、
それぞれの願う人生に
向かうことができます。

・・・・・
本当は
すべてが「私」です。

あの人もこの人も
すべてが
「私」です。

「私」が別個のふりをしている
だけのこと。

人と向き合うということは
「私」自身と
向き合うことです。

「私」同士の意志は
ちゃんと向き合えば
必ず調和するように
できています。

ちゃんと
向き合えば。

つづく